act9 : 侵入



1

 その周辺の空気は砂埃のせいだろうか息苦しかった。ひどくすさんだ感じのする施設周辺の風景は見るに耐えぬ。砂山だけがただ続き、荒廃前の建築物もすべて取り払われ必要な施設の建物にかわっているようだった。誰もこんなところに来るはずがないと高をくくっているのか警備の層は薄い。俺たちのいるところから見るに、ふらふらと歩いている研究員と思われる人間を除くと大きな入り口に警備員が二人、端の小さな建物に一人、あといるとすれば、裏口なんかの非常口に一人、ぐらいだろう。非公式の物件だ、あまり厳重にしてはいないだろう、人数は。しかしその今言った四人は、相当の強い奴と思って間違いはないだろう。俺はそう思って「どうする?」と蛭魔に訊ねた。蛭魔はしばらく沈黙を続けていたが、ややあって「そうだな」と口を開いた。俺は蛭魔の指示を待つ。おそらく蛭魔は一番無難な、それでいて適切な判断と指示を下すだろう。俺はそれに従えばいい。万が一それが失敗したとしたらそのときだ。その万が一が命に関わることになるだろうと言うことは頭に半分ほどよぎったが、今はあえて自分で頭の片隅においておく程度にしておいた。万が一は考えない。確率がゼロでないことが少し恐ろしいけれども、蛭魔の判断で失敗するということはあまり想像できなかった。俺にはそれだけが頼りだった。臆病な、俺には。
 どうする、ともう一度俺はたずねた。いい加減しつこかっただろうか、蛭魔はジッと俺を睨んで口をへの字に曲げていた。あ、悪ィ、と謝ると「なに謝ってんだ」と笑われた。どうやら睨んでいたわけではないらしい。見ていただけか。蛭魔は再度施設のほうを向き何かを考えているようだった。俺は胸をなでおろしホッと息をつく。蛭魔はようやく口を開いた。

「裏口があることにはある」
「じゃ、そこから行くか?」
「……いや、あることはあると言っただけだ。あいつは、例の知事候補は俺がここに来ることを恐らく気づいているだろうな。だから多分、警備は裏口に固められている。裏口よりは――」
「正面からのほうが楽だって?」
「そういうことだ。ケケ、結構頭よくなってきてるじゃねぇか」
「余計なお世話だっつの!」

 蛭魔はかがんだ体勢から立ち上がり体勢を整えた。俺はその蛭魔につられて立ち上がる。蛭魔は、どうやらそろそろ例の施設に入り込むらしい。ポケットから銃を取り出してカチャン、と弾を撃つ準備をしていた。一昔前の型の古い銃器。それをいつ手に入れていたかなんて知らない、でも、今はブラックルートの店にも置いていない銃だというのはわかった。それがいつ手に入れたのか、誰のものだったのか、もしかしたらその銃は『彼』を殺したものなのでは――。そこまで考えて思考をとめた。蛭魔が俺に声をかけてということもあったがそれより先に俺は思考を止めていた。蛭魔にとっての『彼』のことは極力考えないようにしていた。だからどうだっていうんだと自分でも思うのだが考えたくなった。簡単なことだ、それは、俺があの『彼』によからぬ気持ちを抱いているからだ。温かなものではなく、冷たい、格好悪い、あの気持ち――。

「糞カメレオン」
「――え、なに」
「聞いてなかったのかよ、馬鹿かテメェ。チッ、じゃあもう一度言うぞ、あそこの……」

 ポケットの中のナイフと、蛭魔が渡した封筒を手に触れぎゅっと拳を握り締めた。蛭魔の説明も耳に入っていない。聞かなきゃ駄目だ、と思っているのに頭の半分が言うことを聞かない。俺はずっと別のことを考えていた。もし侵入したあと捕まったり殺されたり、あるいは自分が人を殺してしまったらどうしようという浅はかな考えが大半。そしてその残りは、やっぱり蛭魔の『彼』のこと。

「いくぞ、葉柱」

 蛭魔の指名に俺はどきりとする。お、おお と言葉に詰まりながら反応すると蛭魔はいぶかしげに俺を見る。怖いか? と蛭魔は俺に尋ねた。そんなことはない、と心では言えたが言葉に出して言うことができなかった。怖くなんかない、俺の住んでいた街では俺は相当に怖い男だといわれていた。喧嘩だって強かったし身のこなしだって鈍くはない。でも、それなのに、俺はどうしても蛭魔に「怖くない」といえなかった。

「怖かったらここで引き返していい」
「……嫌だ」
「怖くねえって言え。さもないとテメェを気絶させて置いていく。足手まといを連れて行くなんて面倒だ。な、葉柱」
「……嫌だ」
「なにが嫌なんだ、『怖くない』って言うことがか? はっきりしやがれ糞爬虫類」
「……いやだ」

 嫌だ、置いていかれるのも、俺が怖いと思っていることを蛭魔に悟られることも、蛭魔がこの施設に乗り込んでいく理由も、嫌だ。嫌なことばっかりだ。
 俺は蛭魔のうで辺りの服をつかみ「怖くない」といった。蛭魔は少し瞳を細めて笑った。そして俺の手の甲に蛭魔の掌が触れて、温かかった。蛭魔は笑って俺を見る。俺はでも、目をあわさなかった。合わせたら駄目だ、きっと泣く。格好悪い姿を見られたくないという一種のプライドのせいで、俺は蛭魔の表情を汲み取ることができなかった。

「ナイフ握っとけよ、いつでも、走れるように」

いつでも『逃げれる』ようにと言わなかった蛭魔が、俺はどうしても愛しく思えた。



2

 蛭魔に言われたとおり、俺は偶然迷い込んできてしまった旅人のふりをしてふらふらと正面の警備員に近づいた。警備員あからさまに警戒して俺に銃を突きつけた。撃とうという気配は今のところない。俺の後ろにぴたりとくっついている蛭魔は黒い上の服についているフードで顔を隠している。迷い込んじゃったんですけどここどこなんですか、と俺が白々しく下手な演技そのものでたずねると、警備員はジロリと俺を見て「一般人は立ち入り禁止の場所だ」とやはりあからさまに何かありますよー、な空気を漂わせながら俺の質問をさらりと受け流した。殺そうとしている、いわゆる殺意は感じられない。やはり選挙のためだろう、ここで殺人が起きたとすれば警察はかぎつけるし、見つかれば殺人とともに非公開にしていた施設やそこでの悪行がばれてしまうだろう。それを警戒してか否か、警備員は黙って銃を突きつけているだけだった。

「じゃあ、ここからどっちに行けば街があるんだ?」
「……この方向にずっと進め。そうすれば小さい街がある」
「何日ぐらいで行ける?」
「2日もかからないだろうな、おそらく――」

 そのとき、後ろで蛭魔が「今だ」と小さく呟いた。そして俺は言われたとおりに警備員の腹を殴り、殴った瞬間身体をかがめて蛭魔の足台になった。蛭魔は俺の背に足を乗せ飛び上がりひるんでいた警備員を落ちてくる衝動でけり倒した。隣のもう一人の警備員も襲い掛かってきたが今度は俺がそのかがんだ状態のまま足を伸ばしその男に足をかける。警備員は倒れそうになり体のバランスを崩した。それを蛭魔がすかさず頭に足蹴りを食らわせ警備員を二人とも気絶させた。俺が「よし」と一息入れるとすぐ、尋常でない物音に正面のドアが開いて中から他の警備員が顔を覗かせた。俺たちはそれを狙っていた。もちろんその絶好のチャンスを逃すなんてことはしない。ドアを蹴り開けて顔を覗かせた警備員を張り倒す。ぐえ、という嫌な声がした。死んだ声ではない。ただやはり、人が苦しみにもらす声は聞いて心地いいものではなかった。
 蛭魔は「こっちだ」と俺に指示をして走り始める。俺は蛭魔を見失わないよう必死に蛭魔の背を見つめ走り出した。途中出くわした少し年配の警備員が「お、お前はもしかして」と蛭魔の顔を指差して言葉を放ったが蛭魔はそれをものともせず腹を殴って気絶させた。チ、と蛭魔は舌打ちをした。顔を見られた、というより蛭魔の顔を知っている奴がいたことにの舌打ちだろう。刹那あって、施設内には赤い警報がなり始めた。点滅が目に悪い。年配の、先ほど蛭魔が気絶させた警備員の手元を見るとなにやらベルトに装着されたボタンを押していた。俺が思ったのはこの2つ――1つは、押したら自動で警報が鳴るというボタン。残りの1つは、押すと例の知事候補に連絡が行き、蛭魔がこの施設にやってきたことを知らせるボタン。どちらも嫌だし俺たちにとったら面倒のなにでもないのだが、本当は俺にとって、あるいは蛭魔にとって、本当に嫌なボタンは後者のほうだった。蛭魔は警報の赤い色を見上げながら「警報は昔から嫌いだ」とこぼした。『彼』とのことだ、と俺はすぐに思った。

「のんびりしてられなくなったな、糞爬虫類、まだ走れるか?」
「当然、ってか俺そんなに弱そう?」
「弱い弱い、テメェなんかが強かったら誰が弱いんだよ」
「……ムサシと比べてかと思った」

「…………な、に……?」
「………………、……ムサシさんと比べてだと思った」

 蛭魔を困らせたかった。困らせたくなった、唐突に。蛭魔は困った顔をした、でも困ってはいなかった。きゅっと口を結んで俺を見て、くるりと俺に背を向ける。「警備員が走ってくる足音が聞こえる。とっとと行くぞ」と言った。期待していた反応でないことに肩を落としながらも、何故か胸をもなでおろした。なんでか、胸がざわざわする感覚さえも俺を襲った。
 警備員から逃れるために走り出す前に、蛭魔はたった一言だけ俺に言った。

「お前は、ムサシより弱い、ムサシにはなれない」



3

 最初は二人で走っていたのにいつか後ろにつく列には一人増え、二人増え、四人増えていつにか大勢の警備員が俺たちを追っていた。前から来る警備員をくぐるように避け、横からくる警備員を殴り倒して走り抜けた。生け捕りにしろと言われているのか誰も発砲してはこない。ぐるぐると階段を上がったり下がったり廊下を走ったりドアを蹴り破ったりして俺たちは目的地の、蛭魔が言うには『彼』が待機しているという場所に向かっている。それが地下なのか階上なのか奇妙な構造の建物のせいで俺にはわからなかった。昇っているのか降りているのかわからない。階段を三階分上ったとしても三階分くだりの廊下で下がっているような気分にもなる。それに蛭魔も、「昔と少し構造が変わっている、面倒だ、糞」と言っていた。蛭魔もときどき躊躇して立ち止まるがすぐに走り出す。がむしゃらに走っているようにも見えた。バイオテクノロジーの研究所だけあって、同じような廊下やドアがつづき再度同じところに来たのではないかと錯覚におちいる。しかし躊躇して捕まるわけにはいかず、蛭魔と俺は必死になって、つたう汗をぬぐいながら走った。
 不意に、蛭魔の足が止まり俺も止まる。「どうしたんだ」と俺が焦って尋ねると、蛭魔は「クソッ」と表情をゆがめた。蛭魔の視線が向かう方向に俺も目を配ると、俺は顔を青ざめた。浮かんだ言葉は一つ、簡単に『絶体絶命』、なんて簡単。
 目の前には深い深い、底が見えないほどの吹き抜けのようなものが目の前にあった。広くはない、しかし俺の寝室ぐらいの広さはあるぐらいの大きさだ。いわゆる、行き止まり。それでも後ろからは警備員が俺たちを追ってくる、どうすることもできなくなった。上は、高等教育の体育館ぐらいの高い天井があるだけだし、下も無理、横も、後ろも――。
 蛭魔はじっとその吹き抜けの底を見続けている。俺は後ろから走ってきた警備員をギッと睨みナイフを構えた。「その金髪の男を引き渡したら君を傷つけたりはしない」と言われて俺はハ、と笑う。どうだか、と叫んだ。傷ひとつつけずに俺を解放するなんてことは100パーセントない。ここの秘密を知ってしまった俺を、蛭魔のと関わってしまった俺を、あの知事候補の男がみすみす見逃すはずがない。俺はそう思って「誰が引き渡すか」と悪態をついた。警備員の、恐らくリーダーだと思われるいかつい男は「それならば仕方ない」と言って銃をかまえ俺に向けた。

「殺すほかあるまい」
「…………チッ」

 警備員の、その男の指が銃の引き金にかかったと思った瞬間、俺は横から、蛭魔に突き飛ばされてよろめき床にしりもちをついた。痛い、と思ったと同時に、パン、という軽くそれでも大きな音がした。
 俺はなにが起こったか最初わからなかった。しかし蛭魔を見上げてそのあと蛭魔の伸ばされた片腕をつたうように見ていくと、蛭魔の片手に銃が握られ、その重厚からは薄く煙が立っていた。認識すると、警備員のあの男が黙ったままどさりと倒れた。その男の後ろの警備員たちには紅いしぶきが飛んでいた。……その男は動かなかった。
 残りの、前のほうにいた警備員たちは「クソッ!」と言って銃を構えた。まずい、なぜなら今狙われるとしたら俺ではなくあの男を撃った蛭魔だろうから。
 警備員の一人が「足を狙って動きを止めろ」と言った。一番前の警備員が銃を構えて発砲しようとした。俺は、なにを思ったのか、その男がなにをするかを手に取るように感じ、空気をかきわけるように手を伸ばし蛭魔を覆うように抱きとめ弾丸から蛭魔をかばった。弾丸が俺の腕をかすって通り過ぎていった。うあ、と俺は声を上げた。

「……葉柱ッ!」
「…………つッ!」

 ぐらり、と身体がバランスを崩し、俺たちは抱き合ったまま低い柵を越えて吹き抜けを落ちていった。落ちていく際に警備員たちの声が聞こえた。

『追うぞ』
『いやまて、この吹き抜けは最下層に通じているんだぞ』
『俺らは底に入ってはいけない決まりになっているはずだ』
『ム、そうだったな、だがいいのか?』
『……かまわん、なぜならあそこは――』

 そこからは、俺は意識を失って聞こえなかった。
 どさりという音が聞こえた気がしたが痛さはなかった。硬い、しかし絨毯のような芝生のようなものがしかれた、床が俺の背中に当たった気がした。ただ温かな何かを抱き、俺はそれのクッションになっていた。離したくない、という思いが無意識に思われた。

「……はばしら……、……」

 その温かさは、俺の頬に手を当て、呟くように涙声を上げた。



4

 目を覚ますと、倉庫のような、掃除道具入れのような狭いところに俺は寝転んでいた。しかし狭さのせいで足は山形に曲げられている。その場所にいると認識すると、ややあって、俺は腕が片方痛いことに気づいた。もう気を失うほど痛くはない。そうだ、自分は蛭魔をかばって腕を打たれて、『俺が勝手に』抱きしめて吹き抜けから落ちたんだ――。どのくらいの高さだったかは知らないが、よくもまあ大した怪我もなく落ちれたものだ、と俺は少しだけ痛い頭を痛くないほうの腕の手で押さえて辺りを見回した。なにに使うのか全く見当のつかない化学実験器具のようなもの、俺にはガラクタに見えるものが押し込まれていた。物置か。
 薄暗く、そして狭く広間は俺が寝転べる程度の広さしかない。上半身だけ起き上がって息をつく。そしてようやくじんじんと痛んできた腕を押さえて「痛ぇ」と呟いた。するとガタリ、とがっちり閉められていたドアが開いた。驚いてそちらのほうを向くと「やっと目ェ覚ましたか」と声がした。
 蛭魔だ。
 蛭魔は静かにドアを閉めた後ドアに箱やらなにやらを積み上げて外から入りにくくしてから、俺の傍に寄った。腕の部分をよく触ってみたら布がくるくると巻かれているのに気づく。蛭魔が手当てしてくれたのか? と俺が訊ねると、蛭魔は「テメェがうんうん唸るから五月蝿かったんだよ、ドジ」と悪態をついた。俺はしばらくその手当てを触ったあと、申し訳ないように「ごめん」と言い、つづいて「ありがとうございます」と付け足した。

「そう思うんなら俺をかばう前にその敵を倒せ。殺せとまでは言わねぇからよ」
「ナイフじゃ間に合わねぇだろ。俺がかばったほうが早い」
「ケ、それで怪我されて足引っ張られたらよけい迷惑だ」
「……ごめん、蛭魔」
「……、……わかったならいいんだよ糞爬虫類」

 俺は黙ってうつむいた。
 邪魔だといわれても、弱いと言われても、俺は蛭魔に何かしたかった。決して変な意味ではなく、ただ純粋に蛭魔を助けてやりたかった。救いたい、蛭魔を。そしてそれが自分にはできないこともよくわかっている。蛭魔を救えるのは『彼』だけだ、蛭魔が唯一心を許したという、蛭魔を本当の意味で助けることができる、あの男、ムサシ、さん。蛭魔に言われたとおり、科学的にも俺はムサシさんにはなれないし、精神的にというか、絶対に俺は『蛭魔にとって』の『ムサシ』さんにはなれない。蛭魔に直接言われたからよく自覚している。『俺はムサシには、なれない』のだと。
 でも俺は、やっぱり蛭魔に何かしたいと思った。
 俺は蛭魔の手を取って握り締めた。蛭魔は目を見開いて俺を見つめる。何かを口にしようとした瞬間だったらしく口が薄く開いていた。しかしそれは閉められた。自然に蛭魔が口を閉じた、俺はその機会を逃すまいと不意をついて蛭魔を抱きしめる。蛭魔はそれを予測していたかのように静かに俺を受け入れ、沈黙を護り瞳を細めていた。

「俺が守るから、あの男のこと諦めねえ?」

 なにを言っているのだ、と俺は自問した。でも思考が止まらなかった。守るから、と再び口にすると蛭魔は俺の背中に腕を回す。ギュッと握り締めたということは服を伝って容易に感じることができたが、蛭魔は「YES」とは言わなかった。

「ドジには守れねえ」

返ってきたのは、悪態。俺は「うるせーよ」と少し自嘲気味に笑いながらいった。蛭魔はもう一度、ドジには守れないといった。

「ドジには守れねえ」
「カッ、うるせーよ」
「馬鹿にも無理」
「いいよ」
「無理だからッ」

無理だから、でもそれでも。

「それでも……」
「葉柱、俺には……ッ」

俺にはお前は必要ないと言われたとしても。

「蛭魔……」

 蛭魔は俺から離れてうつむいた。腕はかろうじて俺のくびの後ろにまわっていた、が、蛭魔は俺のほうを見ようとはせずしきりに黙ってうつむきを続けている。俺は蛭魔の名を呼んだ。


「ごめん、葉柱……ッ」


「……、……うん」

 蛭魔はとうとう涙声になり、泣いてしまったのかこれから泣くのか、両手で瞳を押さえて、崩れた。俺はその蛭魔の肩を抱き、恐る恐る引き寄せる。拒まれても、お前は俺にとってのあいつにはなれないと言われても、俺はやっぱり抱きしめたかった。

「テメェじゃ、駄目なんだ……」

 蛭魔が俺のほうに腕を回したような気がしたが俺はそれに気づくことができず蛭魔を自分から離し、蛭魔の顔を見てわざとらしく笑って見せた。蛭魔の手が一瞬宙をさまよい居場所に戸惑ったようだったが、俺は気づかないふりをした。蛭魔はその手を自身の膝において膝の上で握りこぶしを作っていた。俺は蛭魔に笑った。

「わかってる、冗談だって。蛭魔らしくねえな、真に受けた?」
「……ッ?」

 蛭魔の顔が微妙に反応した。俺はいかにも、無関心にしらじらしく、他人事のように言った。

「このまま行っちゃったら人一人ぐらいは殺しそうだったから殺人になって面倒だな、って思っただけだよ。不安になっただけだって。それだけだ。」
「……」

 それだけだ、といった。蛭魔と、自分に。言い聞かせた。思いたくなかった。もはや人間だともいえない、かつて人間だっただろう、しかし当の本人――蛭魔にとってはまだ過去の人ではない人間の『彼』に嫉妬する自分がいやだった。
 そうだ、俺は強がって親父に反抗したり仲間とつるんだりしてたけど本当は臆病だし弱虫だし強くない。蛭魔を守れない、救えない。蛭魔が救われるのは『彼』が蛭魔を認識し再び蛭魔を思い出し愛したときだ。俺は決して蛭魔を救ってやることなんてできない。蛭魔に「お前が掴もうとしてるのは藁より脆くて空気より意味のない希望だ」とは言えない。現にそうだと言うのに、きっと蛭魔は言うのだろう、「たとえそうだとしても、それが希望であることにかわりはない」と。

――テメェじゃだめなんだ。

 でも俺は、お前じゃなきゃ駄目なんだ、蛭魔……。
 え、なにそれどういうこと? 俺。なんていえばいいんだ? 俺は……、……。

 蛭魔は何か言おうとしたがやっぱりなにも言わず立ち上がってポケットにしまってあった銃を取り出し「そろそろ行かなきゃな」と呟いた。独り言に聞こえた。まるでここには俺がいないかのように。見据えているのは俺ではなく、『希望』なのだと宣告されたようで俺はいたたまれなかった。しかし蛭魔はこちらを向いて「ナイフ、一応持っとけよ」と言って微笑んだ。お前に使えればだけどな、と皮肉のようなことを言ったが蛭魔の声に俺は皮肉さを感じなかった。「うん」と子どもみたいな返事をして俺も立ち上がる。腕は馬鹿みたいに相変わらず能天気に痛かった。でも蛭魔がその腕をそっと撫でたので俺はそれで満足した。

「そういえば、さっきこの倉庫から出てって何してたんだ?」
「ショータイムの準備」
「は? なんだそりゃ」

 とぼけた顔を笑われて俺は、ぷんぷんとギャグ漫画のキャラみたいに怒って蛭魔を見る。蛭魔は「テメェらしい顔」と言った。俺は刹那的に黙ってその次には蛭魔の手に触れる。細くて、でもしっかりした青年らしい手。そういえば、前にもこんなことを蛭魔に対して思ったな、と思う。俺は蛭魔の指に自分の指を絡ませて握り締めた。蛭魔は困惑と怪訝と切なさを混ぜた色を瞳に浮かべたがすぐに優しい、悪戯な色を浮かべた。蛭魔も力を込めた。

「大丈夫、蛭魔」

 すべて、大丈夫。万事完了。きっと、うまくいくよ。
 蛭魔はハハ、と笑って片方の手でもう一度、最後だと言う風に俺の腕に傷に触れた。

「そんなことわかってる、葉柱」







今度こそ、救われて、蛭魔。








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---------------------------------------------------そう、今度こそ。