act10 : 藁



 溺れるものは藁をも掴むっていうだろ?
 俺は蛭魔に「お前が掴もうとしているのは藁だ」ってことがどうしても言えなかった。
 気づかせてやれるのは、あの男だけだから。



1

 警備員が入って来れなかった、俺たちが落下した地下室は芝生が植えられ壁には草原と空が描かれていた。刑務所と同じ原理だ、と思った。いや、何かの漫画でよんだのだろうか、そんな知識が頭の片端で働いたので俺はそう思った。芝生は柔らかく、これなら落ちてもまあ大丈夫だろうなと思った。その部屋は小さな公園のようで、まるで今でも子どもがここで遊んでいそうな場所だった。不気味だ、と俺は思う。鳥の声や風の音、風そのものが人工的に作用されている。機械で風を起こし、機械で鳥の声を奏でていた。ここは外だ、と洗脳されているような気がしていい気分ではなかった。広いその部屋を横断しながら俺は蛭魔の横を歩く。蛭魔は無言でつんのめりそうになりながら早足だ。俺より歩幅は小さいはずなのに彼の歩きはいつもよりずっと早い。こけるなよ、と俺が口を出しても、蛭魔は黙って歩き続ける。俺の手を握ったまま。
 さくさくと芝生を踏みしめ、俺たちはぺたりと壁に突き当たった。やっぱりその壁も空と草原が描かれていて周りの壁とさほど変わりない。すると蛭魔は壁をコンコンとこづきながら壁に沿って歩いた。「なにやってんだ?」と聞くと、ちょっと黙ってそこでいろ、と蛭魔は言った。俺は言うとおりにして黙ってその場に立ち尽くす。こんこん、こんこん、と蛭魔の手から軽い音が鳴る。部屋にはその音と人工的に作られた鳥や自然の音しかしない。警備員はいないようだ。研究所だというのに研究員もいない。まあ、こんな子どもを収容しておくような部屋で研究する研究員もいないだろうけど。そうだな、俺なら、研究員と言ったら白衣を着ていて、フラスコやビーカーがこぽこぽといってる暗い部屋で実験をしてて、こういう部屋には一切立ち入らないとおもう。この部屋を使うとしたら、自分の子どもを預けておくか、あるいは実験用の動物を放しておくだろう――。
 そこで思考が止まる。なんで蛭魔はここの構造をここまで理解しているんだ? それは前に蛭魔がここにいたからだ。『彼』と二人でいたということまでは聞いた。しかし、『いつから』『どれくらい』いたのかは聞いていない。今蛭魔が行っている、壁をこづくという動作はおそらく『どこか』へ通じる扉か何かを探しているのだろう。警備員も入れない場所のことを知っているということは、昔蛭魔はここにいたのか? この場所で過ごしていたのか。さながら、実験動物を保護されているかのように? 俺が「蛭魔」と彼の名を呼ぶと同時に蛭魔は扉を見つけてガチャリと扉を開けた。開かれると冷たくて嫌な空気が流れてきて、『どこか』へ通じる通路は真っ暗闇だった。

「お前、ここ知ってたの?」
「……まあな」
「住んでたのか?」
「…………まあな」

 同じ返事が返ってきた。

「生きてる心地がしなかった」

 そう、と俺は黙る。蛭魔はその扉の鍵に細工をしていた。外からも内側からも鍵がかけられないようにしているのだろう。蛭魔は「完璧」と満足そうににやりと笑って、通路に顔を覗かせ見渡していた。警備員はやはりいない。ここまで侵入してくる奴がいるとは想定していなかったのかあまりにもこの地下の警備が手薄だ。ラッキー、と言う思いの反面、怪しい、と感じた。研究員も警備員もいない研究施設だって? あからさまに何かをたくらんでいて他人に走られたら困ることを始めようっていう魂胆が丸見えにも思えた。ということは、これは罠に違いない。俺と、蛭魔、あるいは蛭魔だけを誘い込み手に入れようとしているのだ。と、俺が本能的に思っていると、俺の代わりをしたように蛭魔がいった。「罠だな」と。

「あ、やっぱりお前もそう思うか? 蛭魔」
「当然。多分上での警報がこっちにまわったんだな。あいつは、知事候補の奴は、俺たちがここに向かってることに気づいてやがる。急いで警備員や研究員をこの施設から出させやがったらしい」
「何でそう思うんだ?」
「……さっきあの倉庫から出てたとき、消したての煙草が落ちてたからな」
「ショータイム、だっけか? それの準備のとき?」
「……ケケ、そうだ」

蛭魔は笑った。

「とっておきのショータイムだ。今頃、もう余興が地上では始まってるだろうぜ」



2

 「気をつけろよ。そこ足元、段だぜ?」
 蛭魔にそういわれて俺は足元を気にしてそろそろと歩いた。真っ暗な通路は冷たくて無意味に広い。赤黒いライトが5メートル間隔ほどで灯っており、顔を思い切り近づけてようやく互いが認識できるぐらいだった。そして通路には防火シャッターのようなものがいくつも設置されていてそれが目に入ってくるたびに制御コンピュータの怪しい色の光がちらついて邪魔だった。その光をみつけると、蛭魔はそのたびに制御コンピュータと思われるその機械をいじりコンピュータの作動を断っていた。「壊してんの?」と俺が聞くと蛭魔は「人聞き悪ぃこと言うな、停止させてんだよ」といった。防火シャッターというより侵入者の足止めをするためにも見える。それ以上進まれるのが困るというときにシャッターをとじたり、または、逃げようとしたりする侵入者を逃がさないようにする、か。

「おい葉柱、ちょっと指貸せ」
「は? 指なんて何に使うん――」
「いいからとっとと貸しやがれ……、ほら」

 コンピュータの液晶の部分に俺の指が押さえつけられ、コンピュータは何かを認識したようにピコピコ音をたてて電源が切れた。「これが、何」と言う顔で蛭魔をみると、蛭魔はにやりと笑って俺の指を離した。

「もしもシャッターが作動しちまったときの備え。いま指紋を登録したからいざって時はこの液晶に指つけろよ。シャッター開くからな」
「蛭魔は? しねえのか?」
「……あ? 俺か?」

蛭魔はケタケタ、と笑った。俺はいいの、と言う。

「俺はここに住んでたんだぜ? 前にも言ったろ」
「あ、そっか」

 蛭魔はまた歩き始めた。俺も遅れないように、つんのめって歩く蛭魔の横について歩く。少し駆けて蛭魔についていくとポケットのナイフが重たく存在感を俺に感じ与えた。俺は思わずポケットに手を入れてナイフがそこにあることをちゃんと改めて確認し、少し小声で「お前の出番がないといいな」とナイフに言った。もちろんナイフが返事をするはずなんてないからナイフはただ冷たく俺の指先を冷やしただけだったが、少しポケットから出してその姿を覗くと、ナイフはライトのせいで赤黒く光った。その色が不気味で、怪しくて、嫌なことを連想させて目をそらして手を離しポケットの中に再び落とした。
 なにしてんだ、という蛭魔の台詞で我にかえった。パッとポケットから慌てて手を離して「なんでもない」と言い訳する。いぶかしげな蛭魔の表情は、俺がしばらくしどろもどろしていたけどなかなか元に戻らなかった。そしてようやく戻ったかな、と思い安堵して息をつくと蛭魔は俺に話しかける。

「怖いのか?」
「……って、またその話かよ。怖いわけねえだろ」
「ふーん。さっき不安だとか言ってただろ」
「それと、これとは、関係ないの! 怖かったらついてきてねえよ。そう思わねえの?」
「思っていいのか?」
「……、……当然、だろ?」

 違うの? 俺は首を傾げた。そうか、と蛭魔は背を向け通路を歩く。その背を少しだけ後ろで見つめていると、俺はすぐさま蛭魔に駆け寄って蛭魔の腕を掴んだ。いや、本当は手を取ろうと思ったのだが、手を取る瞬間に蛭魔の瞳に『彼』が映っていたような気がして気兼ねしたようにそれはできなかった。瞳に全く関係ない今その場所にいない人間や物が映るなんてことはない。それは俺の妄想だし幻想だし幻影だ。俺、相当参ってるな、と思った。
 何に参ってるって? そんなこと、いわずとも。
 蛭魔と目が合って俺は蛭魔の歩きを制止する。ちょっと待てよ、と蛭魔の足を止めた。通路に俺の声が響いた。少しエコーした後はすぐシンとなった、やっぱり何の音もしない。警備員がやってくることも研究員がやってくることも知事候補のオッサンがやってくることもないだろう。もちろん、ムサシさんも。でも蛭魔は誰かが今の声に気づいてやって来るかもしれないということを心配した。絶対に、少なくとも今はやって来ることはないということぐらい俺でも気づけたのに蛭魔は何かに動揺したように冷静な判断ができていなかった。「誰もこねえよ」と言うと「そんなことわかんねぇ」と蛭魔は反発する。「わかる」と俺も、負けじと反発した。しかし「来てくれなきゃ困る」と意味のわからない支離滅裂なことを蛭魔は口走った。

「は? 来てもらわなきゃ困るってどういうこと?」
「……俺は、そうじゃねェと……、……ッ」

 彼が「お前が……」とまで言うと蛭魔は口をつぐんだ。何かを言いそうだった。が、かしゃん、という音で二人とも意識がそちらへ向かい深追いすることもされることもなく今の会話はなかったことにされた。音の主は蛭魔の銃で、俺が蛭魔を掴んだ拍子に落ちたようだった。
 蛭魔は銃を拾おうとしたがそれより先に俺が銃を拾い上げた。いつものごとく、礼はかえってこない。黙ったままその銃を受け取り、蛭魔はそれを握り締めた。そして今度は一人歩き出そうとはせず、つんのめることもなく、俺の手に触れその蛭魔の手の指に力がこもった。細くてさらさらで、温かな指だった。握りつぶさない程度に握り締める。指など絡めないように、握ったまま引っ張っていくことなどもないように、握ろう。思ったより難しかった。これが以前の俺なら、街に住んでいた頃の俺なら、相手が、名前さえも知らない女の子だったりしたら……。そのまま手を握って引っ張って身体を寄せて、抱きしめでも抱き上げでもそのままベッドにでも行っていたのだろう。そんなことを思って俺は苦笑した。ガキッぽかったんだな、俺。今はあの時はじめてあったときと比べて成長してるのかなあ。な、蛭魔……。

「お前は怖くねえの? 蛭魔……」
「……どうだろうな」

 握り締めた手をしげしげと眺めて俺は尋ねた。蛭魔は微笑んだ。そこは笑うところじゃないと思った、でも俺も泣くことも怒ることもはしゃぐところでもないと思ったのでつられて笑った。「なに笑ってんだ」と笑った瞳のまま睨まれて「蛭魔こそ」と困った瞳で蛭魔を笑った。「そうだな」と蛭魔。

「やっぱり、怖ェな」
「怖いなら、そう言えよ?」
「今、言っただろ」
「もう一回、言って?」
「怖い。嫌になるほど怖い。怖すぎて本当泣ける」
「……ふざけてるだろ、お前」
「ケケ、そう思ってるなら、それでいい」
「思ってねえけどよお」

 それならそれで別にいい、とやっぱり蛭魔は笑った。最近になって、というより今になってようやくわかったのだが、切羽詰ったときに蛭魔が笑うときは、彼が本音を言っているときだということに気づいた。やっぱり、怖いよな。それは俺の感じているただの恐怖ではなく、もっと重たい、自分の愛する人を殺すという悲しみも含んでいるのだろう。そんな気持ち俺にはわからない。俺は愛する人を失うという経験なんてしたことないしその人を手にかけ、二度も殺さなくてはならないことなんて、ない。きっとこれからだってない。その重みは、互いに愛し合っていなくては背負えないのだから。 
 俺は。きっと味わえない。

「もう少しでこの階層で一番大きな部屋に着く」
「……そこに?」
「ああ、そこにムサシと、知事候補の男がいるだろうな」
「俺ナイフもってたほうがいいのか」
「……いや」

 ポケットから手を出そうとしたナイフを蛭魔は俺の手ごと覆い、しまわせた。テメェはそんなもん持ってなくてもいい、と言った。どうして、と口を開こうとすると「いいんだ」と口を挟まれた。

「テメェにはテメェの役割があるからナイフはそのときに、使え」
「いつ? そんな時あんのか? あのオッサンと戦う以外に?」
「……あるさ、きっとそのときは気が動転してるはずだから、手でするよりはナイフが役に立つ」
「……?」

 行こうぜ、と蛭魔は俺の手をもっと強く握る。俺も蛭魔の手を握り締めた。指を絡めてしまいたい、些細な願いが、俺の心をずっと締め付けている。

「葉柱、やっぱり、俺怖いぜ。指が柄にもなく震えてやがる」
「あ、それ、俺の指かも。」
「テメェって案外ヘタレ?」
「るせーよ」

 つかないで欲しいと願っていた一番大きな扉が目の前に現れる。ここをあけたらあの男がいるだろうと蛭魔は踏んでいる。蛭魔が言うのだ、そうなのだろう。そんなこと俺にだってわかる、上の階層ではあんなに警備員に追われたのに地下に落ちてから誰一人として人間に遭遇しない。こんなに重要な場所のようなのに誰もいないなんて明らかにおかしい。罠だってことは百も承知の上。でも開けよう。この扉を開けて、あの男を倒して、それが無理ならせめてムサシさんのクローンを破壊して、救われる手助けをしよう。それが俺に唯一できる蛭魔への救済、自分が藁になって上げられるたった一つの方法だ。
 俺は扉に手をかけようとする。すると蛭魔は手を制止する。「何?」と聞くと「いいのか?」と聞いてきた。「何が」そう返すと、蛭魔は「いや、なんでもねえ。テメェがいいならいいんだ」と語った。訳もわからず頭を縦に振る。「うん。いいんだ、別に」そういうと、蛭魔は笑って返してくれた。


「幻滅されねぇようにするから、俺のこと切り捨てるなよ」


 いつか言った言葉とはまったく違う言葉に俺は蛭魔の髪に触れ、しかし触れただけで手を離し、蛭魔が扉を開けた。扉を押す彼の手には俺の手がしっかりと重ねられていた。



3

 広い空間はどこから見ても研究所そのものだった。大きなビーカーやフラスコのようなものが太いコードや管につながれてこぽこぽと泡を立てている。なかの液体が気味の悪い蛍光色でねっとりとジェルのようだった。漫画やゲームの魔物や胎児などがホルマリン漬けになっているようなものを想像したがここの液体の中には何も入っていなかった。想像して気分が悪くなる。うん、いなくてよかった、漬けられてなくてよかった。俺は真っ暗の、液体のところが無闇にライトアップされている部屋で頷いた。
 「離れるなよ」と蛭魔に袖を引っ張られて俺はよろよろと蛭魔の肩に背を預ける。すると蛭魔も俺の背に背を預けた。背中同士向かい合わせで辺りを警戒して蛭魔は銃を構えた。いや、実際はその姿を見ているわけではないから銃のカチャという音がしたのでそう気づくことができた。俺もナイフを握り締めようとした、が、それは阻まれた。それは持つなと蛭魔に言われた。忠実な犬になったわけではないが、蛭魔が言うことにいつも間違いはなかった。だからだ、と、言い聞かせる。そうでもないと俺は今にもナイフを持って闇の中をなりふりかまわず切り裂きに行きそうだったから。あの知事候補のオッサンを見たらすぐにでも殺しに行ってしまいそうだった。それじゃあ駄目だ、それじゃあ……。ちゃんとあのオッサンの口から真実や事実を聞き出さなくては、ここまで来た意味はない。だから蛭魔は俺にナイフを持たないようにしたんだろう。ぐ、と拳を握った。
 そのときだった。ブイン、というテレビの雑音にも似た音がしてパパパ、とその部屋が明るくなった。俺たちは警戒してより強く背中を合わせて辺りを見渡す。蛭魔は今にでも銃を撃ってしまいそうだった。おちつけよ、と声をかける。わかってる、と意外にも余裕のある声で答えた。奥のほうからねとねとした声がした。聞き覚えのある声だ。俺は思った。生で聞くとさらに神経を逆なでする声だ、なんて毒々しく、政治家らしい、汚らしい声だろう。

「来ると思っていたよ、蛭魔君」
 その声で俺たちは振り向き声の主を睨んだ。白いスーツをセンスなく着こなすふてぶてしい男が余裕をかました顔でこちらを見つめていた。家で、テレビから見た顔と寸分もたがわぬ政治色の強い、私利欲に溺れたような顔がいやらしい。少しはげた頭をやれやれと言った風にかしげ「久しぶりだね」と蛭魔に視線をよこして言った。「全く会いたくなかったけどな」と蛭魔は言う。知事候補の男は中傷するように蛭魔を笑った。

「逃げるとは思っていなかったのでね。よもや逃げ切るとは」
「……ケッ。テメェもずいぶん偉くなったな。元はただのファック野郎だったくせによ」

くはは、と蛭魔の台詞をまるで気にしないで男は笑った。その笑い方がどうしても俺の神経を逆なでする。むしゃくしゃする、居心地の悪い、笑いに、吐き気がする。

「だが君はやはり戻ってきた。しかも自身の意思で。君も堕ちたものだな」
「ハ、どうにでも言いやがれ」
「ふ。まあ、いい。……おい、こちらへ来い」

と、男は気持ち後ろに顔を向け誰かを呼んだ。わかりました、という返事がしてさらに奥から足音が聞こえた。踏みしめるようなその音を聞き俺は息を呑む。蛭魔の表情がキュっと硬くなるのが見えた。……来たのだ、あの男が。蛭魔にとって、永遠の『彼』が。
 知事候補の男は満足そうにベタリと笑う。知事候補の横にやってきた男はサングラスをしていた。SP全員が着ている黒いスーツを身にまとい背筋を伸ばして知事候補の横に立っている。「サングラスを捨てろ」という知事候補の支持でそいつはサングラスに手を掛け、掴み、バシンと自身のサングラスを床に投げつけた。サングラスは割れて、そのうちの破片のひとかけらは蛭魔の足元にまで及んだ。蛭魔はその欠片をチラと見たようだったが足で蹴り飛ばすことも拾い上げることもせず再びあの『彼』のことを見つめた。それがどうした、という目をしている。「懐かしい顔だろう」と知事候補は言う。「そうだな」と何の疑いもなく蛭魔は答える。「胸糞悪い事このうえねぇな」

「だが少なからず君はこの男に期待を抱いているはずだ」
「…………」
「もし完璧なクローンになり、すべてを思い出したとき、もしかしたら再び自分を愛してくれるかもしれないと。違うかね?」
「……………………」
「君が私に協力してくれたらそれが可能になるのだ。わかるだろう? 君は頭のいい子どもだ、そのために君は狙われていたのだからな」

 そういえば、さっきこの施設に来る前に蛭魔がこの知事候補に狙われる理由をチラリとこぼしたな、と思った。たしかクローンには記憶と感情が一番てこずるとか……それで蛭魔が必要だということは、知事候補は蛭魔の頭脳を欲しているということなのだろうか。頭のいい蛭魔に、ムサシさんを完璧なムサシさんにするためにクローン開発の手助けをしろというのか? でも記憶や感情が戻ってしまったら知事候補にとって不利になるのではないのか。知事候補に反発した気持ちも元に戻るだろうし、なんの躊躇いもなく人を殺すことだってできなくなってしまうだろう。それなのにどうして。そんな疑問が俺の頭の中をグルグルとまわっていたら、蛭魔が口を開いた。

「そんなにムサシを元に戻したいのか」
「当然だろう。考えてもみたまえ」

 知事候補は何の感情もない『彼』の肩に手を置きくすりと笑う。蛭魔もまた、『彼』の感情がそのまま移っているように無表情だった。

「ムサシは優しい男だった。それは君もわかっているだろう? 蛭魔君」
「ああ」

 躊躇いのない蛭魔の即答に俺の胸がうずく。いや、いい。そんなことはどうでもいい。

「例えば私にとって不利益になる人間を殺さねばならんとき、何の感情もなくやみくもに惨殺してしまえば必ず足がつく。だが感情があれば、相手を思いやりいたわり信じ込ませ、油断させたところで誰にもばれず殺すことができるだろう」

 ああ、そういうことか。納得しました、本当、今すぐ殺してやりたいぜ。でもまだ俺は冷静にいられた。ぐ、と足を地につけていられる。蛭魔の面持ちがまだ平然と保たれていたからだ。

「では、ならなぜ君を欲しているか気にはならないかな?」
「……言いたいなら言え。テメェが言いたいなら聞いてやるよ」
「ふん、上手いこと言うようになったな。君らしくない台詞だ」

 俺が言った言葉だ。
 蛭魔は無言だった。銃の引き金を握る指が赤くなってきている。そんなに力を込めないでも大丈夫だ、と言いたかったが言い出せる雰囲気ではない。それに俺の拳を握る指のせいで、俺のてのひらも赤くなっていた。ようやく痛いことに気づき拳を解く。内出血しているようだった。
 知事候補は汚い笑いを続けたまま言った。冷静でいろ、と俺は自分に言い聞かせる。まだ大丈夫だ、平然といれる。……でも。

「記憶を取り戻し、君を愛することを思い出したムサシに、蛭魔君が人質だと言ったらどうすると思う? 彼は私の命令を、拒絶すると思うかね?」
「……ッ!」
「なっ……、この野郎……、……ッ!」

 知事候補がそう言い放ち、蛭魔の表情が刹那歪んだ瞬間俺は飛び出そうと足を宙に浮かせていた。走り出そうとし、ポケットのナイフを手にして男に切りかかろうとする。蛭魔を侮辱するのはいい加減にしろ、もちろん『彼』を侮辱することも。それはだって、蛭魔にとって『彼』は蛭魔自身だから。俺は許せなかった。なぜなら俺にとって『蛭魔』は俺だから。蛭魔にとっての『彼』と同じように俺にとっては『蛭魔』だ。それが何を、何の気持ちを意味するかなんて頭に血が上った俺には気づけなかったけれど。

「やめろ、葉柱!」
「……蛭魔!?」

 腕ではなく手を掴まれて俺は足を止める。銃を突きつけられて「やめてくれ」と言われた。「でも」と蛭魔に抵抗したが無意味だ。「やめろ」と蛭魔は言い銃の引き金を引こうとする。「わかった」とあきらめもとの位置に戻る。知事候補の男が嘲笑うように俺を見ていたので舌打ちする。「仲間割れかね?」と呆れる保護者のような振る舞いが腹立たしかった。

「さあ、そろそろ本題に入るとしよう」
「そうだな、いい加減テメェの話を聞くのに飽き飽きしてきたぜ」
「ふふ、では単刀直入に言おう。蛭魔君、“あれ”を渡してもらおうか」
「……ハ、テメェの考えることなんてそんなことだと思ってたぜ」
「クローンに必要な記憶と感情を戻すものは“それ”が必ず要るという研究結果がでたのでな。君もわかっているのだろう? ムサシのクローンに必要な感情と記憶を戻すものは、君の持つ――」

 話の内容は理解できなかったが話は見えた。だから蛭魔は狙われていたのか。ようやくこの話のほとんどが見ることができた。クローンに必要な記憶と感情を戻す何かを蛭魔は持っている、そして戻した後には蛭魔を人質として利用したい、だから蛭魔は狙われていて、捕まりそうになって、そして知事候補の悪事をとめるべく蛭魔はこの施設にやってきた。なら、蛭魔は何を持っているのだろう。知事候補は何を欲しているのだ?

「渡してくれるのだろう、蛭魔君。君だって『元の』ムサシに戻ってきて欲しいと思っているはずだ。さあ、渡してもらおう――」
「渡すかよ」
「……なに?」

 蛭魔は銃を構えるのをやめて腕を下げて前に数歩歩み出る。あぶねえぞ、と俺が叫ぶが蛭魔は振り返らなかった。微動だにせず知事候補と『彼』を見つめていた。

「例の物は全部あいつに渡したからな。俺は何一つもってねェんだ」

 あいつ、というのは誰だ、俺? 蛭魔は確かにこちらを指差していた。そして俺が呆然と蛭魔を見詰めていると蛭魔は振り向き微笑する。その蛭魔の柔らかな顔とは正反対に知事候補の顔は気味悪く歪んでいる。「嘘は言ってはいけない」といよいよ悪意のこもった声になる。

「まさか、君にそんなことができるはずがない。いいか? 君は今でもムサシ、彼のことを――」
「うるせぇよ」
「!?」

蛭魔は知事候補の言葉をさえぎり再び俺に背を向ける。「テメェがなんと言おうと」とうつむき加減に語っていた。表情はどうなっているのかは当然こちらから見えるはずもなく俺は歯がゆく思う。

「俺がどう思っていただろうと、今どう思っていようと、俺がこいつに渡したと思えば渡したことになるんだ。残念だな。完璧なムサシは、もうこの世には存在しない」

 知事候補はムサシさんの腕を掴んで叫びだす。とうとうキレたか、と俺がすぐにでも蛭魔を助けにいけるように構えるが蛭魔はそれでもジッと佇んでいる。知事候補は蛭魔に指をさした。

「ぬかせ! あの男に渡したというなら、その部分だけ取り出しムサシを完璧なものに仕立て上げてやる」
「……それで完璧なものが作れるとでも思ってんのか?」
「クッ、チィ! 構わんもういい、あの男を殺り、蛭魔を捕らえよ、ムサシ!」
『……承知しました』

 俺と、ようやく蛭魔も身構えたそのときだった。
 どん、という銃声よりははるかに大きな、花火ほどもある爆発音がして知事候補のさらに奥の部屋の壁が爆発した。知事候補はムサシさんにかばわれて無事だったようだしムサシさんも無事で俺も蛭魔も無事だったが奥の部屋から大きな炎が姿を覗いている。何が起こったんだ、と俺が呟くと、間に合ったな、と蛭魔は意味深に声を漏らした。

「……どうした、何が起こったというのだ、ムサシ」
『わかりません、が。どうやら時限爆弾が仕掛けられていたと』

 恐ろしい形相で知事候補は蛭魔を見詰める。「貴様ぁ!」と、先ほどまでは大人しくあくまで物静かな政治家を装っていた知事候補だったがついに本性を現した。青筋を立て、残り少ない、爆発のせいでぼさぼさになった髪を手櫛で直しながら知事候補は立ち上がり全身全霊で俺たちを呪っているようだった。

「貴様のせいか蛭魔妖一ィッ!」
「ここにはいい思い出がからっきりないからな。わずかにあるいい思い出も、あの時ムサシを殺した瞬間からすべてなくなった。だから、もう二度とおこらないように、クローンの技術をすべて無に返す。ケケ、いいアイデアだろ?」

 蛭魔は笑った。その瞳には余裕が残されている。

「せっかくのショータイムの幕開けだ。せいぜい楽しみな」
「蛭魔、ショータイムってこのことなのか?」
「まあな。まあ、これは幕開けにすぎねえ、が」

知事候補は壊れたように笑い出した。狂ったのか? と俺が言うと蛭魔は かもな、と言う。知事候補は笑いたいだけ笑ったあと呼吸を整えて光のない瞳でこちらを見詰めた。「致し方ない」と続ける。

「君はテロリスト、私は被害者。建物についての言い逃れは簡単だ、証拠は爆発のせいで消滅するしな」
「…………」
「大きな痛手だが、仕方あるまい……。君も、堕ちたものだな、蛭魔妖一」

ねとねととした口調でゆっくりと喋るそいつに鳥肌を立てる。男はゆらゆら、と足を絡めながら歩く。

「ムサシ、あいつらを炎に誘い込み……殺せ」

壁につたいながら、なにやらパスワードのようなものを入力し小さな非常口の扉を開けていた。地上に続くエレベーターか何かだろう。どちらにせよ俺たちは使えない。爆発しているのにエレベーターを使うのは危険だし上に行ったエレベーターの箱がしたに無事戻ってくるかも定かではない。くそ、と俺が舌打ちしたが「あいつは放っておいても大丈夫だ」と蛭魔が言った。
 『彼』は黙ったまま炎が舞い狂う爆発の起きた部屋へ歩いていった。蛭魔は歩いて『彼』の後を追う。俺は驚いて、困って蛭魔の手を引いて引き止めた。お前何考えてんだよ、と叫んだ。

「蛭魔ッ テメェ死ぬ気かよ!」

蛭魔は黙って、こちらを見ないようにしていた。そして俺の手を振り払って進もうとするので俺は蛭魔の肩を抱き、手を引いてこちらを向かせた。行くなって言ってるんだよ、と泣きそうになって言う。蛭魔はこちらに身体を向かせられてもなお、俺とは視線を絡ませようとしない。そして吐き捨てるように「嫌なんだよ」といった。

「嫌なんだよ……」
「嫌って、なにがッ!」
「葉柱、俺は……、……やっぱり、嫌なんだ」
「蛭魔、俺……俺は……お前が……」
「葉柱、ごめんな……」

 ごめんな、って、何が。
 お願いだから何も言うな。言わないで、そのまま黙って俺と一緒に、ここから出て行こう。
 お願いだから。


「嫌なんだよ、あいつが、ムサシが、何の感情も記憶もなく、俺の前に立っているのが!」

「……じゃあ、俺だって嫌だ! お前が、蛭魔が溺れていくのを見んのがよ!」

俺は蛭魔を抱きしめる。蛭魔も何も抵抗せず俺の抱きしめを受け取ってくれた。細い身体、華奢な腰、それでもやっぱり青年らしい腕や肉付きは男の子だ。炎のせいで少し熱くなった髪の毛も最後に触ってから寸分もかわらぬ。どうか行かないで、ここでいて。そして一緒に街に帰ろう。捨ててきた友人のヘルメットを拾い、友人に返し、一緒に礼を言いに行こう。俺が守る、救うから、お前も俺と同じように俺を守って。

「いいんだよ、葉柱。お前が思っているように、ムサシがたとえ藁だったとしても」
「……蛭魔ッ!」
「俺は救われたいんじゃねぇ、ムサシを救いたいんだ……」
「…………、……彼を?」
「一度死んだはずが、再び死ぬ悲しみを味わうなら、せめてたった“一度だけ”愛し合った俺が、救ってやりたい」

俺は蛭魔が走り出さない程度に抱きしめをとき蛭魔の顔を見詰める。蛭魔は俺の視線と自身の視線を絡めあい結び合う。「例の物頼んだからな」と言った。

「例のものって? 封筒?」
「違ぇよ。あれだ、あれ。クローンに必要な、何かを」
「え、何? 俺は何も貰ってない――」
「言っただろ。クローンで一番てこずるのは記憶だって」

そのとき、蛭魔は俺の手を取って引き寄せた。俺はかがみこみ、蛭魔は背伸びをし、互いに顔が近づいた。温かいものが唇に触れる。蛭魔の金色の前髪が俺のまぶたに触れた。
 キスしていた。


「好きだぜ、葉柱」


一度唇が離れてもう一度押し付けあう。強く抱きしめる。彼が折れてしまうとか、潰れてしまうとかは考えなかった。考える余裕もなかった。ただ忘れたくないと願うようにひしひしと思うこの気持ちを焼きこむように目を閉じ、抱く。
 再び顔を離し今にも泣きそうな顔で蛭魔を見ると蛭魔は「変な顔」と笑った。でも俺はいつもみたいに一緒に笑えなかった。

「言うのが、遅ぇんだよ。何で、何で今言うんだ……ッ」

 そのために、俺は、ずっと……。
 蛭魔は今度は悲しそうに笑って俺の髪に触れる、炎のために互いの顔が赤い。蛭魔の瞳がいつもと比べてより赤く染まり、そのなかには、決して『彼』ではなく俺が映っていた。

「今 言えば――」

 にや、と眩しく蛭魔が笑う。


「テメェ絶対、俺のこと忘れねえから」


 どご、と、思いっきり足で蹴り飛ばされて俺は倒れこんだ。とっさに彼の名を叫ぼうとしたが大きなシェルターが両サイドからしまり、その声は届かず、目の前に鋼鉄の重たい壁が出来上がった。
 しまる瞬間、刹那蛭魔の笑った顔が見えた気がした。
 俺は立ち上がってシェルターを拳で殴る。彼の名を叫び続ける、しかし声が届いているのかいないのか、鋼鉄の壁の向こうからは爆発音しかしなかった。

「くそ……、畜生……ッ!」

 もう一度、彼を呼ぶ。開けろ、開けてくれ、と物言わぬ壁に訴えた。死ぬ気かよ……、と額をシェルターに当てて泣いた。あいつ、最後に笑っているなんて……。

「……! そうだ、封筒は!?」

と、彼が俺のもとに残していったものを思い出し俺はポケットに手を突っ込んだ。封筒は少しくしゃくしゃになって俺のポケットにちゃんといた。封筒はしっかりとのりつけしてあってなかなか開けることができない。俺はまどろっこしくなってナイフで封筒をかき切った。なかからは手紙らしき便箋が入っている。あのラブホテルのロゴが入った紙だった。あのときに書いたのか。俺が気づかない間に、こっそりと。
 俺は急いで文章に目を通す。汚い字だった。彼の性格が現れているようないい意味で汚い字だった。読み進めると、俺は涙が止まらなくなって馬鹿みたいに腕で涙を拭きながら読んだ。そして最後まで読み終わるよりさきに、俺は「畜生!」と叫んでシェルターを蹴り、先来た道を走り出した。馬鹿悪魔、と涙声で漏らした。

「畜生……ッ、蛭魔……!」

手紙をぐしゃぐしゃにしてポケットに無理矢理押し込んだらナイフが腕にかすって血が出たが、そんなことを気にすることもなく、俺は無我夢中で走り続けた。


『葉柱へ
 テメェが俺の文章見てるってことは俺の思惑通りに進んだって考えていいんだな? 途中であけたら殺すとか俺言ってたろ? よかったぜ、“今”テメェがこの封筒開けててよ。
 で、単刀直入に書くけどだな。俺を助けたいと思ったときに開けろ、と俺は言った、で、お前が今開けているってことは俺を助けたい、そう思うぜ俺。勝手に。助けたいと思ったんなら、頼むからここから逃げろ。どうせテメェ糞重てぇシェルターあけようとでもしんたんだろ。残念だったな、ここのシェルターはそんな簡単にあかねぇんだ。閉めれば最後、長ったらしいパスを入れなきゃ開かない。パスは……忘れちまったよ。
 まあ、多分今読んでるときに横には俺は走ってねぇと思うけど、助けたいと思うなら早くここから出てくれ。俺は大丈夫だって、ここの構造は充分知ってる。助かる可能性、1億分の1ぐらいは残ってるんだからよ。
 だから、行け。俺には欲しい物があるんだからな――』


「……ぐ、うッ、蛭魔……」

 流れる端から涙は炎で蒸発していった。泣く暇なんてない、と炎にまでせかされているようだった。わかってる、わかってるけど、とやっぱり泣いた。


『――俺の欲しいものは、“俺のことを覚えている記憶を持つ誰か”だから』


 いくつものシェルターをくぐり抜け、俺は封筒に入っていたこの建物の地図を参考に出口へと向かう。警備員も研究員も脱出したのか誰とも会わないし死体らしきものも落ちていない。
 地図の通り道をたどると、入ってきたときとは違う出口から外に出た。外は夕方だった。赤い空が、否応にも彼の瞳の色を思い出させた。


『――俺の欲しいものは、“俺のことを覚えている記憶を持つ誰か”だから――』


俺は建物から離れて砂地に膝を突いた。泣かずにはいられない、俺は、彼に、彼を……


『――お前に生きていてほしい』


 人でもクローンでも一番てこずるのは感情と、記憶。クローンに必要だった最後のひとかけら、何かというのは、彼と『彼』だけが共有したお互いの記憶だったんだ。そこに愛という感情があったから、あの男は彼をほしがった。『彼』を完全な『彼』に仕立て上げるために。そしてその『何か』を俺に渡したというのは……。

『例の物は全部あいつに渡したからな。俺は何一つもってねェんだ』

『俺は、そうじゃねぇと、お前が……』

そうか、あの言葉は、


『好きだぜ、葉柱』


俺のことを、愛してしまったってことだったんだな。

 俺は、膝をついたまま、気分が悪くなって嘔吐する。自分は言えなかった、できなかった。彼は『彼』だけを愛していると思い込み、彼の気持ちを知ろうとも思わなかった。そしてそれが彼を見殺しにした。彼は俺に逃げろといってくれたけれど、俺には何も残っていない。言えばよかった、せめて、蛭魔を愛している、と。


『欲しい物、あれば何でも言えよ』
『欲しいものは、もう無い』

『あの約束、まだ有効なわけ?』
『じゃ、有効』
『……元の、ムサシがほしいッ』

『テメェじゃ、駄目なんだ……ッ』

でも、俺のことを“いらない”とは一言も言わなかった。


『俺の欲しいものは、“俺のことを覚えている記憶を持つ誰か”だから』


 藁になれない俺はせめて一緒の海に溺れてやろうと思っていたのに、そんなふりをして、結局同じ海で溺れてやってはいなかった。







『お前に生きていてほしい』








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---------------------------------------------------俺も、好きだ、蛭魔。