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act6 : 行先 1 「なんで、逃げなかったんだ、糞爬虫類」 蛭魔の声に震えが消えた。泣き崩れはしなかったが、蛭魔は俺の横でずっと黙ったまま震えを押し殺すようにしていた。しかし、蛭魔の体から震えが途絶えたと思ったとき、蛭魔は再度俺にそう訊ねてきた。「何で逃げなかったのか」俺にとっては愚問だった。逃げれる雰囲気ではなかった、っていうのは理由の第一。あそこで一人逃げたって、あるいは蛭魔を連れて二人で逃げたって、あの男からは逃げられなかった。それがわかっていたから。二つ目は、俺が逃げちゃったらお前はそのあとあの男に捕まるだけだったから。見捨てちゃうぐらいなら、どうせ捕まってしまうなら、俺は最後まで、自分の部屋と、蛭魔を、まもってみたかったから。くさい台詞なのは、まあ、わかってます、消臭剤ふりまかれることぐらい覚悟の上、だから。俺は蛭魔の言葉に小さく反応して頭をかいた。 「だって」と俺は口答えした。蛭魔はぴくりと俺のほうを見かかったがやっぱり俺を見なかった。俺も蛭魔のほうを見れなかった。だから、蛭魔が、俺のほうを見ないのも、気にならなかった。俺の場合、蛭魔の顔を見たらまた泣き出しそうになるだろうから。涙腺ゆるくて嫌になるぜ、本当。太刀打ちできないとわかっていても飛び掛れなかった自分が情けない、だから蛭魔の顔が見れない。蛭魔の叫び声に、躊躇してしまった自分が恥ずかしい。蛭魔の切なく歪んだあの表情が自分の情けなさと比例しているような気がして、俺は蛭魔が見えないのだと思う。 「なんで逃げなかったっつってんだろ、返事できねぇのか? 糞爬虫類」 「……助けてっつったから、蛭魔が」 「誰が。いつ、どの瞬間にだ」 「さっき、あの変な男に、連れて行かれそうになったとき……蛭魔が」 蛭魔は舌打ちした。舌打ちするとその直後に ハ、と小馬鹿にしたように鼻で笑う。「誰も助けてなんて言ってねえよ」と俺に訴えた。――そうだ、確かに蛭魔は一言も助けてなんていわなかった。口にも出さなかったし、おそらく心の中でも思っていなかったのだと思う。ただ蛭魔は俺に逃げろと思っていた。俺のほうを見て俺の名をつむいだのも、俺が勝手に「助けてほしい」という風にとっただけだし、蛭魔にとっては、俺の行動は迷惑のほかのなんでもなかったのかもしれないし。 でも俺は。 飛び出さずにいられなかった。 「じゃあ蛭魔お前、あの男と行きたかったのかよ」 「……それとこれとは関係ねぇだろ。いいか、もうこんなことは起こらねえけど、もしあったとしたらテメェは一人で逃げろ。わかったら返事、糞カメレオン!」 「…………」 「……チッ」 ドアの修理をしてくれる業者の人が尋ねてきてくれたので俺はその場から立ち上がって業者さんの対応に追われた。2時間ぐらいで直せるという。セキュリティーなどが破壊されたのではなく、ドア自身が破られただけなのでドアを直せばすぐだという。それにしたって安物のベニヤ板でできていたわけではないのに、あの男はよくもまあ簡単に破ることができたよ。業者の人も呆れたように興味深げにドアを眺めていた。俺は「ではお願いします」と挨拶して、部屋の奥へと戻った。 2 『もうこんなことは起こらねえけど、もしあったとしたらテメェは一人で逃げろ』 手際のよい業者さんの作業でドアを直すのには二時間もかからなかった。お気をつけて、との業者さんの言葉に俺は礼をし、お世話になりましたと頭を下げた。業者の人を見送りドアを閉め、再びきちんと鍵を閉めなおすと、俺は蛭魔の立てこもっている寝室へ向かった。あのあと、舌打ちをしたあと蛭魔は寝室にこもってろくに返事もしなかった。ごそごそと何かをしている雰囲気はなかったし部屋を荒らすとか散らかすとかいったヒステリーを起こしているわけでもなさそうだった。俺は寝室のドアを軽くノックして中からの反応を待つ。案の定返事は無し。はあ、とため息をついた。ドアに額を当てて情けなく、蛭魔の名を呼ぶ。先ほどの蛭魔の言葉が耳から離れない。どういうことか、俺には理解できなかった。『もうこんなことは起こらねえけど』って、もうあんなふうに襲われることは無いってことだよな。そこまでは理解できた。問題はそこから。もう襲われないと確信しているわけは何なのか、どうしてそういいきれるのか、本当にそうなのか。蛭魔は何を思ってそんなことと口走ったんだろう。 「蛭魔、聞いてんだろ?」 だんまり。声がしない。俺が逃げなかったからって、拗ねてんのか? しるかよ、逃げるも逃げないも、俺の勝手だろ。お前を助けたいと思うのだって。 「蛭魔、返事しろよ。業者の人は帰ったから、話ぐらいしたって――、っと」 不意に、ガチャリとドアが開けられて俺はふらついた。額をドアにもたれさせていたから当然といえば当然なのだが、間抜けなポーズに、蛭魔はフンと小さく笑った。あ、笑った、と認識したら目の前に新聞紙が覆いかぶさった。今朝俺が買ってきた新聞だ。机に広げてあったのが無かったから蛭魔が部屋に持っていっていたのだろう。何? と俺が蛭魔に瞳で訴えると蛭魔は人差し指でちょいちょいと俺をよんだ。蛭魔はソファに腰をかける。俺は蛭魔の、やはり隣に座ることはできず向かいのソファに座った。「新聞の一面をここに広げろ」と命令されて俺は従い手にした新聞を朝と同じように机に広げる。そこには知事候補と、そのSPたちと記者が移された写真が同じように載っている。「これがどうしたんだ?」と首をかしげて蛭魔に言うと、蛭魔は黙って新聞に視線を落とす。そして手に持っていた俺のボールペンのキャップをぬき、くるくると上手に指で回す。蛭魔の仕草をぼんやりと見ていたら、キャップを投げつけられて我に帰る。蛭魔は、そのボールペンでSPに落書きをし始めた。それも、SPといっても候補者を囲んでいる、いかにも弱そうで質より量で選ばれていそうなSPには目もくれず、候補者の真横に立っているおっさんのSPにだけ落書きをした。決して上手な落書きではなかったがガキっぽい落書きでもなかった。 ひげを書いたりだとか、訳のわからない生物を書くような、小等教育生のノートの端くれの絵ではなく、わずかに、一つ、そのSPの瞳あたりに、黒いサングラスを書いただけだった。しかしそれは、俺になんらかの危機感を覚えさすのには充分だった。 「……こい、つ」 「……わかったか、さっきの男の正体が」 蛭魔が、あまりにも的確にそのSPに落書きをするので俺は言葉が出なかった。 先ほどの男と、蛭魔がサングラスの落書きをしたSPは、紛れも無い同一人物だった。ということは、あのときテレビを見て感じたこのSPに対する恐れと、先ほどの男に感じた恐怖は同じということになる。そして、蛭魔を狙っている、あの男を雇っている、あるいは所有している奴というのは――。 「そうだ、俺は、この知事候補に狙われている」 「……ッ!」 蛭魔は、淡々と冷静に言った。俺は蛭魔を慌てて見つめる。でも蛭魔はやんわりと起きたてのぼんやりとした表情で普段と変わらないような顔つきでいた。俺を見ないで新聞の男を見つめている。「なんで」と、俺はせっかくせき止めていたのに、ぽろりとその言葉を口にしてしまった。聞かないと決めていたのに――。俺は、「いや、別に聞きたくない」と慌てて弁解した。蛭魔はニヤリと笑った、が、嫌味な悪い感じの強みが無かった。 「あの知事候補はバイオテクノロジー関係の充実を掲げ立候補してんだろ? それ聞いてなんか確信できた」 「でも、狙ってんのが知事候補なら、また狙ってくるに決まってるんじゃねえのか? さっき蛭魔、もう絶対狙われないとか言ってた……」 「ああ、それはな、」 蛭魔は思い出したように手を叩き俺を見る。そしてそれがまるで当たり前のように、これから敷かれている変えられないレールのように、言った。 「俺がここから出てくから、“テメェは”狙われねぇって、ことだよ」 「……なっ!?」 蛭魔が新聞紙を乱暴にたたんだ拍子にテレビがついた。俺は間抜けに口を半開きにしながら蛭魔を見る。「キショイ顔してこっち見るな」と蛭魔は笑った。 「出てくって、出てってどうすんだよ。あいつらに捕まるが落ちじゃねぇか!」 「でもな、俺がここにいたっていつかは捕まるんだ。そのときはテメェもだぜ葉柱ッ! どうせ捕まるんなら、俺一人で充分だ、そう思わねぇのか馬鹿カメレオン!」 「んな、思わね――」 ザザザ、ザ……。 突然、先ほどひょんとした拍子でついてしまったテレビがかすかに砂嵐の音を立てて映像を鮮明にさせた。臨時ニュースが入ってきたようだ。あわただしくアナウンサーが原稿をめくって読み始めた。また誘拐された奴が出たのか? と思ったがそんなニュースがもはやこんな臨時ニュースで始まるとは思えなかった。俺はテレビを見つめる、それは蛭魔がテレビにかじりついたからだ。言い返す隙が無くなった。ちくしょう、上手い具合にかわしやがって、蛭魔。 テレビに映る男性アナウンサーは、何度も噛みながら必死にニュースを読んでいた。不意に映像が入ってきた、どうやら生放送らしい。映った映像に、俺は目を丸くしてみた。例の知事候補だった。 『極秘に新しい施設を建設しているという噂は本当ですか、そのために税金を未納入という噂は本当ですか!』 『前者の質問にはノーコメント! しかし後者にはお答えしましょう、そんなことは一切ありません。どこからきた噂ですかまったく! 不審ならどこからでも調べてくださいね』 極秘の新しい施設――、は、俺にもピンと来た。以前に知り合いから聞いたことがある、無論バイク友達なんてちゃらちゃらした奴ではなく政治関係の知り合いから。たしか極秘のバイオテクノロジー関係の施設で、その存在は名の通り極秘で、知り合いも思わず口から漏れてしまったという感じだった。しかもご丁寧に場所まで教えてくれて――確か一時期勤めてたといっていた。だからその施設は『新しい』のではなく単なる『極秘の』施設。極秘である時点で、すでに怪しいものなのだが。 俺がテレビを消そうとリモコンを握ろうとしたら、俺よりも先に蛭魔がテレビを消した。ガラン、とリモコンを放り投げて蛭魔は俺を見た。 「……何」 「……まさかとはおもうが、テメェさっきの施設について何か知っているか?」 「…………、知りてぇの?」 「ということは知ってるんだろ? ……、言え」 「どうしよっかね」 「言え、糞爬虫類」 結局、俺が折れて言うことにした。敵のことはすべて知っておきたいって? 俺には関わるなとか逃げろとか言ったくせに、身勝手な、奴。 「公には非公開ってことになってるバイオテクノロジーの施設。働いてた知り合いがいて、場所は知ってる。一般の奴は、ほとんどその存在すらしらねえ、いかにも、な場所」 「その知り合いとは連絡が取れんのか」 「……いや、死んだ」 「……殺されたのか、まさか」 「……いや、老衰。俺に喋ったから、ってわけじゃねえと思う」 知事候補の手の内に、老衰にみせて殺せるバイオテクノロジーによる薬とかがあれば別だけど。でも、知り合いったって90過ぎた大往生だったし、殺す必要もなかっと思うけど。そういうと、蛭魔は「そうか」と納得したように肩の力を落とした。そう、と俺も意味なく力が抜けたように返事をすると、蛭魔はソファから立ち上がってソファのクッションをどけた。なにしてんだ、と俺が尋ねると、蛭魔はソファのクッションから黒い金属のものを取り出した。俺はそれを見て絶句する。蛭魔が取り出したのは紛れも無い、正真正銘の銃だった。 「なに、隠してたんだ蛭魔!」 「俺は、そこへ行く」 「……は?」 「バイオテクノロジーの施設に、行く。場所だけ教えろ」 突然の蛭魔の申し出に俺は戸惑いが隠せない。蛭魔の本気は声と手に持つ銃で嗅ぎ取ることができた。でも、ひとりでって、お前――。 俺は、蛭魔の前に立ち銃を持ったほうの蛭魔の腕をつかむ。蛭魔は全身全霊で俺を憎むように睨み付けた。撃たれるかと思った、あるいは目で殺されるかと思った。 「言わない」 「言え」 「行かせないとは言わねぇ、でも、お前一人で行かせない」 「言え、行かせろ」 「俺も行く、施設は遠いし、俺が足になる」 「……、……」 「遠いから足になる、やむをえず人撃たなきゃならないときは俺も手になる。場所を知らないなら俺が頭になる、連れ去られそうになったら俺が身体になる、だから、俺もつれていってくれ、蛭魔ッ」 「……この、糞カメレオンが……ッ……」 蛭魔が一瞬黙り込んだので怒ると思ったが、不意にクスクスと笑って、俺の片方の腕を手にとった。「お前を連れ去るような趣味悪い奴いねえよ」と、やっぱり、笑った。俺はつられて笑いそうだったのをおさえ、「うるせーな」と赤面させて言い返した。蛭魔は、俺をつかむ指の力を少し弱くした。 「……おろしていいんだぞ」 「? ん?」 切ないというか、優しいというか、気遣いというか、悲しいというか、やっぱり、切ないというか、蛭魔には似合わない表情が、蛭魔の顔の大部分を覆った。 「俺に幻滅したらすぐバイクからおろしていいんだぞ」 next --------------------------------------------------- 俺に幻滅する理由は、沢山 |