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act0' : 零より鮮明な零 「……蛭魔」 「どうしたんだ、ムサシ」 ムサシは迷うといった感情が一切ない面持ちで俺を見つめていた。 「逃げよう、俺たちはここにいたら人間じゃなくなる」 「……どういうことだ」 「聞いたんだ、さっき通りかかった個室の前で。あの男は、俺たちを――」 逃げよう、とムサシが俺に手を差し伸べたので俺はムサシの手を取った。ぎゅっと握って、決して離れないように、部屋を抜け出して走り出すとサイレンの音が鳴り始めた。 目の前が赤に点滅する様子が網膜に焼き付いている。けたたましい轟音が耳を劈き鼓膜が痛い。必死に走ってわき腹が痛く、すぐにでも倒れこんでしまいたい気分だった。足がもつれ体勢を崩しそうになると 蛭魔は抱きかかえられ支えられる。大丈夫か、と尋ねられ、ああ、と頷く。ムサシは笑ってこちらの手をつかみ、再び長い廊下を走り出す。その赤い点滅が炎なのか警告のサイレンなのかははっきりしない。 ただ大人たちの失礼な、踏み躙っていくような走りの足音がだんだんと近くなり、 行く手を阻むようにシャッターがおりていく。それも、シャッターは鋼鉄で重く、厚く、硬いもので 閉まると絶対に人の手では開けることはできない。コンピュータ制御のシャッターをくぐり抜けるように通り抜け、 出口まであと一つ、というところまで来て二人は足を止めた。ホールのような広い部屋だった。 二人は今までこんなに外界の近くにきたことはなかった。先ほどまで走ってきた廊下の、ずっと奥のこの建物の中ですごしてきた。 でも、二人にはもうこんなところにいるわけにはいかなかった。あの男の、あんな話を聞いてしまっては。 「大丈夫か、蛭魔」 「……一応な。テメェのほうがやばいだろ、怪我してる。無理してんじゃねえよ、ムサシ」 蛭魔が服を破ってもう一人にまきつけた。ムサシは、少し笑って蛭魔の手をとった。 「時間がない」 「わかってる」 『で、あの男は何て言ってたんだ。どういうことだよ、俺たちは人間じゃなくなるって』 『……あの男は、俺には暗殺を、お前には政治界の重役に売春をやらせるらしい。邪魔なものは俺で消し、利用できる者はお前を売って媚びるらしい』 『……なん、だって?』 『ここにいたら俺は殺人鬼になりお前はきっと感情のない人形になる。だから、逃げよう。せめてお前だけは救われて欲しい』 『…………ムサシも。だろ』 『……、…………』 ムサシはニコリと笑って蛭魔を抱きしめた。蛭魔は、眉間にしわを寄せて泣きそうになったのを隠すようにムサシの胸に顔をうずめた。 『そうなれば、いいな』 盗み出してきた、一番厳重で厚い外界へのドアを開けるパスワードの紙をとりだした。視界はまだ赤色に点滅している。 足音だってまだ途絶えたわけではない。追っ手が手間取っているのはシャッターが再び開かれるのを待っているからだ。 そのわずかな時間でパスワードを入力して蛭魔とムサシは外界に出なくてはならない。もたもたしていては間に合わない。 しかし、蛭魔は、緊張しているのか焦っているのか手が震えている。 ムサシは、落ち着け、と言う。蛭魔はごめん、と弱音を吐いた。いつもはそんな態度など とらない、のに。しかし手の震えは取り除けなかった。そのときだった。 パン、と軽い爆発音がして二人は音の元に振り向いた。追っ手が後ろに立っていた。蛭魔はムサシにしがみつく。 今のうちにパスワードを入れてしまえ、と蛭魔は耳打ちする。ムサシはわかった、とパスワードを入れ始めた。 追っ手の真ん中に立っていたふてぶてしい男は一歩前に歩み出て脂っぽく笑う。にたりと笑う顔が気色悪かった。 蛭魔は、口元に手の甲を当てて「来るな」と叫んだ。男は肩をすかしてやれやれ、と言ったふうに笑う。 「逃げてどうすると言うのだ。行き場所などないだろう」 「うるさい、こんなところにいるよりは外でのたれ死んだほうがましだ」 「わからんね、ここにいれば飢えも乾きもしないだろうに」 「黙れッ」 蛭魔はその気持ちの悪い男の喋りをさえぎった。早くパスワードを入れてくれ、とせかすが、 さすがに外界に通じるドアであるだけに、パスワードは長く、それも複雑だった。 その複雑さのあまりにできてしまう時間に蛭魔はいらついた。これ以上時間を稼ぐには無理がある。 しかも、その焦りと苛つきを察しているかのようにふてぶてしい男がパスを入れ終わるのを待っているようで それがなおさら二人を焦らせ、苛つかせた。そして、ようやくパスを入れ終えた。パスを入れていたムサシは叫んだ。 「……開いた! おい、蛭魔から逃げろ」 シュウ、と重たい扉が砂埃をまきあげて開きだした。外を覗いたが外には誰もいなかった。 蛭魔はムサシを握り走り出そうとしたが急にそいつが立ち止まり、振り向いた。 どうした、と訊ねるとムサシは右足を押さえて崩れおちた。わずかだが、右足に何か刺さっているのが見えた。針のように見えた。 蛭魔が、ふてぶてしい男の横に立っている兵を視界に捉えると、ふてぶてしい男がにたりと笑った。 「身体の機能を一時的に停止させる薬さ、最新の麻酔だと思ってくれていい」 「糞野郎……ッ」 蛭魔は、自分より身長の大きいムサシを抱きかかえようとする。しかし、自分よりも大きく、そのうえ足の自由の利かない ムサシを連れて逃げるのには無理があった。くそ、と舌打ちをすると、ふてぶてしい男はハハハ、と笑った。 蛭魔はそいつに殴りかかろうとした。しかし。 「やめろ」 「でもッ」 「いいから、お前だけ、逃げろ」 「テメェ、何言ってやがる俺にお前を置いていけると思ってんのか!」 「どっちみち俺をつれてじゃ助からねェよ」 追っ手の奴らが遠隔操作をしたのか、一度開いたはずの重く硬いドアが沈み始めた。 引きずってでは、確かに間に合わない。でも、ムサシを置いていくぐらいなら……ッ! 蛭魔の腕をつかんで床に倒れこんでしまったムサシは笑った。蛭魔は何もいえなかった。 どん、と蛭魔はムサシに突き飛ばされしりもちをつく。ムサシは追っ手に拘束されて取り押さえられる。 蛭魔は助けに駆け寄ろうとしたがムサシに「来るな、逃げろ」と叫ばれて立ちすくむ。追手は蛭魔にまで手をかけようとした、 ムサシは蛭魔に叫ぶ。 「蛭魔、俺を殺せ!」 「……ムサシッ?」 「こんな奴らに利用されるぐらいなら、いっそお前の手で……、殺せ!」 「…………、ムサシ……ッ!」 パン、と音がした。撃たれた? 撃った? 何の音だ、銃の音? 自分が撃たれたのだろうか、それともムサシが? 違う、自分がムサシに撃ったのだ。殺してくれと言われたから殺した。あんなやつに利用されるぐらいなら、俺がこの手で……。 俺は転げながらしまりかけの重い扉を抜け出た。 外界の空気は、機械で洗浄されたあの建物の中の空気よりよっぽどか軽く、薄く、心地よかった。でも気分は悪かった。しばらく走って、 建物が見えなくなるまで、辺りの風景が変わるまで走ると倒れこんで、吐いた。 何で置いてきたんだ、一緒に逃げようと言ってくれたのはあいつだったのに。 俺はあいつが好きだった。重い運命を共に担ってきた、共有してきたあいつは俺にとって希望だった。それと同じように、あいつにとっても俺は希望で居られたのだろうか。 もしそうであるなら、俺は逃げなくてはならない。俺に逃げろと言ってくれたのなら、俺はあいつの希望を叶えてこそ救われる。 俺はずっと走った。ずっとずっと、走っていた。何日も、何年も走っていたような気がする。気がするだけかもしれないし実質は何週間ぐらいだけかもしれないけれど。 追手が来る気配は全くなくなった。 でも俺には、 溺れていく中で支えになる浮き具さえもなくしてしまった。 そして俺は出会う。血みどろになった俺の手をつかみ、面倒そうないやにお節介な男に、 そして、死んだはずの俺の希望に。 next ---------------------------------------------------鮮明な記憶 |