act0 : はじまりより前のはじまり




 目の前が赤に点滅する様子が網膜に焼き付いている。けたたましい轟音が耳を劈き鼓膜が痛い。必死に走ってわき腹が痛く、すぐにでも倒れこんでしまいたい気分だった。足がもつれ体勢を崩しそうになると 抱きかかえられ支えられる。大丈夫か、と尋ねられ、ああ、と頷く。そいつは笑ってこちらの手をつかみ、再び長い廊下を走り出す。その赤い点滅が炎なのか警告のサイレンなのかははっきりしない。 ただ大人たちの失礼な、踏み躙っていくような走りの足音がだんだんと近くなり、 行く手を阻むようにシャッターがおりていく。それも、シャッターは鋼鉄で重く、厚く、硬いもので 閉まると絶対に人の手では開けることはできない。コンピュータ制御のシャッターをくぐり抜けるように通り抜け、 出口まであと一つ、というところまで来て二人は足を止めた。ホールのような広い部屋だった。 二人は今までこんなに外界の近くにきたことはなかった。先ほどまで走ってきた廊下の、ずっと奥のこの建物の中ですごしてきた。 でも、二人にはもうこんなところにいるわけにはいかなかった。あの男の、あんな話を聞いてしまっては。

「大丈夫か」
「……一応な。テメェのほうがやばいだろ、怪我してる」

二人のうち片方が服を破ってもう一人にまきつけた。巻きつけてもらったほうは、少し笑って相手の手をとった。

「時間がない」
「わかってる」

盗み出してきた、一番厳重で厚い外界へのドアを開けるパスワードの紙をとりだした。視界はまだ赤色に点滅している。 足音だってまだ途絶えたわけではない。追っ手が手間取っているのはシャッターが再び開かれるのを待っているからだ。 そのわずかな時間でパスワードを入力して二人は外界に出なくてはならない。もたもたしていては間に合わない。 しかし、細身の方、先ほど服を破って応急手当をしたほうは、緊張しているのか焦っているのか手が震えている。 隣にいた方が細身の奴の手を取り、落ち着け、と言う。細身のほうはごめん、と弱音を吐いた。いつもはそんな態度など とらない、のに。しかし手の震えは取り除けなかった。そのときだった。 パン、と軽い爆発音がして二人は音の元に振り向いた。追っ手が後ろに立っていた。細身のほうは隣の奴にしがみつく。 今のうちにパスワードを入れてしまえ、と耳打ちする。細身の隣にいた奴は分かった、とパスワードを入れ始めた。 追っ手の真ん中に立っていたふてぶてしい男は一歩前に歩み出て脂っぽく笑う。にたりと笑う顔が気色悪かった。 細身の奴は、口元に手の甲を当てて「来るな」と叫んだ。男は肩をすかしてやれやれ、と言ったふうに笑う。

「逃げてどうすると言うのだ。行き場所などないだろう」
「うるさい、こんなところにいるよりは外でのたれ死んだほうがましだ」
「わからんね、ここにいれば飢えも乾きもしないだろうに」
「黙れッ」

細身の男はその気持ちの悪い男の喋りをさえぎった。早くパスワードを入れてくれ、とせかすが、 さすがに外界に通じるドアであるだけに、パスワードは長く、それも複雑だった。 その複雑さのあまりにできてしまう時間に細身の男はいらついた。これ以上時間を稼ぐには無理がある。 しかも、その焦りと苛つきを察しているかのようにふてぶてしい男がパスを入れ終わるのを待っているようで それがなおさら二人を焦らせ、苛つかせた。そして、ようやくパスを入れ終えた。パスを入れていた男は叫んだ。

「……開いた! おい、お前から逃げろ」

シュウ、と重たい扉が砂埃をまきあげて開きだした。外を覗いたが外には誰もいなかった。 細身の男は隣の男の服を握り走り出そうとしたが急にそいつが立ち止まり、振り向いた。 どうした、と訊ねると男は右足を押さえて崩れおちた。わずかだが、右足に何か刺さっているのが見えた。針のように見えた。 細身の男が、ふてぶてしい男の横に立っている兵を視界に捉えると、ふてぶてしい男がにたりと笑った。

「身体の機能を一時的に停止させる薬さ、最新の麻酔だと思ってくれていい」
「糞野郎……ッ」

細身の男は、自分より身長の大きいそいつを抱きかかえようとする。しかし、自分よりも大きく、そのうえ足の自由の利かない その男を連れて逃げるのには無理があった。くそ、と舌打ちをすると、ふてぶてしい男はハハハ、と笑った。 細身の男はそいつに殴りかかろうとした。しかし。

「やめろ」
「でもッ」
「いいから、お前だけ、逃げろ」
「テメェ、何言ってやがる俺にお前を置いていけると思ってんのか!」
「どっちみち俺をつれてじゃ助からねェよ」

追っ手の奴らが遠隔操作をしたのか、一度開いたはずの重く硬いドアが沈み始めた。 引きずってでは、確かに間に合わない。でも、この男を置いていくぐらいなら……ッ!  細身の男の腕をつかんで床に倒れこんでしまった男は笑った。細身は何もいえなかった。
 どん、と細身の男は床に倒れこんでしまった男に突き飛ばされしりもちをつく。倒れこんだ男は追っ手に拘束されて取り押さえられる。 細身の男は助けに駆け寄ろうとしたがその男に「来るな、逃げろ」と叫ばれて立ちすくむ。追っ手は細身の男にまで手をかけようとした、 床で取り押さえられた男は細身の男に叫ぶ。細身の男は、その言葉を受け取ると相手の名前を呼んで今にも閉まりそうなドアから転げ出た。 パン、という軽い爆発音が聞こえた、撃たれたのだろうか? 自分が? あいつが?  外界の空気は、機械で洗浄されたあの建物の中の空気よりよっぽどか軽く、薄く、心地よかった。でも気分は悪かった。しばらく走って、 建物が見えなくなるまで、辺りの風景が変わるまで走ると倒れこんで、吐いた。
 何で置いてきたんだ、一緒に逃げようと言ってくれたのはあいつだったのに。

あいつは誰だったんだろう。

あの時一緒に逃げようと、そしてお前だけが逃げろと言ってくれたのは。

追っ手が来る気配は全くなくなった。
でも俺には、
溺れていく中で支えになる浮き具さえもなくしてしまった。









あいつは、誰だったんだろう。








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--------------------------------------------------- 序章。